父の夏

七夕の絵を見た姉から、、新しい原稿が送られてきました。
テーマは『父の夏』
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我が家の夏の昼食は殆ど毎日と言っていいほど“茶がゆ”と決まっていた。
父がめっぽうそれが好きだったからだ。父は関西の出身で、子どもの頃から食べ慣れていたようである。
そもそも残りご飯を無駄にしないための工夫だったと思うが、暑い夏、食欲が落ちた時でもさらさらと喉を通る、あのひんやりした食感は忘れられない。
家電製品が発達した現在では、そうした工夫の喜びがすっかり姿を消してしまった。
子どもの頃、茶がゆを作るのは私の仕事だった。朝食の片付けをしながら大きなお鍋に湯を沸かし、そこへ冷や飯を入れコトコトと煮る。ほどよく煮えたら、別に入れておいたほうじ茶をたっぷり注ぎ、塩を一つまみ入れて火を消す。風呂場でタライに水を張り、粥を煮た鍋を浮かべ、時々水を取り換えながら冷やす。時間をかけてひんやり井戸水で冷やされた茶がゆには塩昆布や古漬のかくやなどがよく合った。
パンツ一枚の裸姿で肩に濡れたタオルをかけた父がおいしそうに茶がゆを食べ、騒がしく鳴く蝉の声に“夏はいいなあ”と楽しんでいた姿は瞼に鮮明にやきついている。
そしてもうひとつ、父の夏といえば“水風呂”である。父は仕事の途中でも暑くなると水風呂に飛び込む。しかし汲みたての井戸水は冷たすぎる。そのためいつでも風呂桶にはあらかじめ水を汲んでぬるくしておく必要があった。我が家はその頃、手押し式の井戸を使っていたので四角くて大きな風呂桶に水を汲むのは容易なことではなかった。誰もやりたがらなかった。私などは自分の鎖骨が異常に発達したのは、大事な成長期にあの過酷な水汲みをさせられたせいだと今でも思っている。
或るとき、あまりに辛いので椅子を持ってきてその上に立ち、井戸の取っ手に足を紐で縛りつけ本を読みながら足で汲んでみた。それを見た父は叱らずに“お前さんには負けたよ”と笑った。しかし結果は失敗、やはり何事も全身でやらなければうまくいかないものだということがわかった。
その当時まだ日本の家庭にはエアコンなどというものはなく、各家では涼をとるべく様々な工夫をした。我が家では夏になるとまず、建具が全部外され、すだれがそれに代わった。部屋の中には端を布でくるんだ細い割竹の長いもの、軒下にはごつごつした丈夫そうな竹の短いものがかけられた。夕方になるとすだれを通った風が“明珍の風鈴”をならし、いかにも涼しげだった。まさに夏の風物詩と言える。
すだれと言えば思い出すことがある。父には変な癖があって、夕方散歩に出ると、まだそう遠くへ行かないうちに戻ってくることがよくあった。道に落ちている釘や針金を見過ごすことができずに、拾って一度家に置きにくるのである。小さな引出が沢山ついた桐の低い箪笥に分類してしまっておき、夏になるとそれらが大活躍するのである。
父はもともと生活の知恵が大変豊富な人だった。軒下のすだれが折からの強い風でバタバタしたり、あるいは出入りに邪魔な時、瞬時に巻き上げるためのフックを作ってみたり、夜蚊帳を吊る時、部屋の中央に下がっている電灯ののコードを短くする道具を作ってみたり…さしあたり今なら、日曜大工センターにでも行けば簡単に手に入りそうなものだが、その当時はそんな店もなく父の作った道具は大変重宝した。父が亡くなった後、その桐のタンスはお弟子さんの一人に差し上げたと聞いた。
そういえば父の仕事机の周りにはアイデアいっぱいの使いやすいものが沢山あった。例えば浅いアルミのお盆を無数に使った、絵筆、色鉛筆、絵の具などを入れるひきだしや、机の真ん中を四角く切り取ってガラスをはめ、下から蛍光灯を照らすトレーサーなど、近所に住む建具屋さんが父の良き協力者だったこともさいわいした。
なぜかこの頃、整然とした、そして夢のある父の仕事机をよく思い出す。いくらでも便利なものが簡単に手に入る世の中になったが、父の創意工夫の精神はしっかり子供達にうけつがれているように思うし、最近では父がこよなく愛した骨董家具の店を自分で始めた私の息子に父の影を見ることがよくある。