松本かつぢの生い立ち

1904年、神戸で父・寅治と母・いしの間に生まれたかつぢは、8歳のころに東京へ家族とともに移り住み、立教中学在学中(13歳頃)にはじめたアルバイトで博文館の雑誌のカットを描き、さし絵の世界に入りました。

18歳で同中学を中退後は、川端画学校へ通いながら独学で絵の技術を学び、「新青年」「少女世界」「少年世界」等数々の雑誌でカットやさし絵を描くようになりました。

1923年の関東大震災によって出版業界が大打撃を受けたことをきっかけに、かつぢはパリで絵画のうでを磨くことを決意。

途中で立ち寄った上海では「上海日日新聞」に記事とイラストを描き、渡航と滞在の費用を捻出していました。

そんな中、徴兵検査のために急遽帰国を余儀なくされたかつぢは、偏平足であったがゆえに出兵こそまぬがれたものの、パリ行きは断念せざるを得なくなりました。

その後昭和に入った日本で、少女雑誌のさし絵画家としてデビュー。エキゾティックでかつ繊細な美少女の絵で頭角をあらわしました。

雑誌「少女の世界」「少女の友」で注目を浴び少女達の人気を得ると同時に、ユーモアあふれるタッチのさし絵やマンガにも挑戦し、代表作「くるくるクルミちゃん」を35年間連載するなど、さし絵画家にとどまらない新境地を開拓しました。

タイムライン

松本勝冶 神戸に生まれる

1904

日露戦争開戦

1910

竹下夢二の挿絵がブームになる

1913

中原淳一誕生

- かつぢ家族とともに上京
立教中学在学中に始めたアルバイトがきっかけで挿絵の世界へ

1914

第一次世界大戦開戦

1920

蕗谷虹児の挿絵が評判になる

立教中学中退
川端画学校でデッサンを学びながら雑誌でカットや挿絵を描く

1922

東京の出版業会が大打撃を受け、友人のいる上海へ渡る

1923

関東大震災

『少女世界』『少女画報』などで挿絵を手掛ける
この頃同時にコミカルタッチのさし絵やマンガも描きはじめる

1928

中原淳一誕生

さし絵画家として独立し『少女世界』『少女の友』で活躍

1931

「のらくろ」発表

満州事変

二森あや子と結婚

1932

8ページにわたる「月の見た話」さし絵が『少女の友』で大反響
付録マンガ「?(なぞ)のクローバー」「板チョコ3人組」発表

1934

マンガ家へ転身

1937

『ピチ子とチャー公』『お目目くるくるクルミちゃん』等マンガを発表

1938

1939

アメリカで『風と共に去りぬ』公開

軍部の意向により『少女の友』を降板した
中原淳一の後継者として活躍

1940

理研科学映画部長に就任
映画のタイトルバックやアニメーションを制作

1941

日本が第二次世界大戦に参戦

1945

終戦

銀座にかつぢグッズショップをオープン

1946

中原淳一『それいゆ』創刊
『サザエさん』連載開始

中原淳一が創刊した少女雑誌『ひまわり』に
『エレン物語』等多数作品発表

1947

1950

『ジャングル大帝』連載開始

1953

NHKテレビ放送開始

50歳を機に少女雑誌から引退
児童雑誌、学年雑誌、絵本等に活躍の場を移す

1955

カリフォルニアにディズニーランドオープン
『少女の友』廃刊

『克プロダクション』設立。童画と商業デザインを始める
コンビ、月星シューズ、布団の双葉等の仕事を手がける

1960

1964

東京五輪開催

1966

ビートルズ来日

伊豆にアトリエ「稚筍房」(ちじゅんぼう)設立
竹細工の玩具などをデザイン

1971

『ベルサイユのばら』が一世風靡

長男と一緒に、幼い頃の憧れのアンデルセン縁の地デンマークへ
遺作となる『ハームとモニーの12ヶ月』を描き始める

1975

次男一騎を訪ねてアメリカへ

1976

サンリオからハローキティグッズ発売

1979

蕗谷虹児没

1983

中原淳一没
任天堂より初代ファミリーコンピューター発売

1984

『風の谷のナウシカ』公開

5月13日永眠。富士山の麓富士霊園に眠る。

1986